宇都宮が百人一首のまちと呼ばれる理由

先日、栃木県の小山が「開運のまち」であることを書いたんですが、それ以来、栃木の歴史を調べることに完全にはまってしまいました。地元の歴史ってめちゃくちゃ面白いですね……!

 

ということで今回は、栃木の歴史シリーズとして、宇都宮がなぜ「百人一首のまち」と呼ばれているのかを書いておきたいと思います。

 

 

まず、宇都宮には平安時代に建てられたお城がありました。もとは関東七名城のひとつに数えられ、難攻不落とも言われた凄いやつです。この宇都宮城には、宇都宮一族が住んでいました。このお城は、平安時代に摂政として京を支配した藤原一族の流れを汲んでいて、宇都宮氏というのは、藤原一族でもあります。

 

平安時代の末期、宇都宮城の5代目当主であった宇都宮頼綱(よりつな)は、武士でありながら歌人でもありました。しかし時代は平安末期です。政治のごたごたに巻き込まれ、謀反の疑いをかけられ、頼綱は京都の山に出家することになってしまいました。

 

そうして京都で、朝廷に仕える歌人、藤原定家(ていか)と仲良くなり、彼にあるお願いをします。それが「自分の別荘にかっこいい和歌を飾りたい」というものでした。

 

平安末期というと、源平の戦いが起こっている時代です。当時、藤原定家は歌を詠むのにも政治のしがらみを気にしなくてはならず、自由に歌を選べない状況でした。そんな時に「友人の家を飾る」目的の和歌なら、政治も人の目も気にせず、好きなように素晴らしい歌を選べると喜んで引き受けました。

 

百人の歌人から、一首ずつ選ぶ。

そうして出来上がったのが「小倉百人一首」です。

本当は友人である宇都宮頼綱のためだけに選んだ歌ですが、今ではその素晴らしさに、小倉百人一首そのものが和歌の代名詞にもなっています。

 

(出典/flickr)

 

つまり、宇都宮城の当主であった宇都宮頼綱がいなければ、百人一首が生まれることもなかった、ということですね!そういったわけで、宇都宮は「百人一首のまち」と呼ばれることになりました。

 

ところで藤原定家は「ていか」とも「さだいえ」とも呼ぶんですが、「ていか」が主流です。「ていか」という名前、めちゃくちゃかっこいいですよね?

 

百人一首の中には、この藤原定家の歌もちゃっかり入っています。97番歌の権中納言定家が、藤原定家です。

 

「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」

 

意味:どれだけ待っても来ない人を待ち続けるのは、松帆の浦の夕凪のころに焼かれる藻塩のように、わが身も恋い焦がれて苦しいものだ。

 

 

と、こんなふうに宇都宮は百人一首とはなかなか深い関係がある街なんです。すごくすごく面白い話だな、と私は思ったんですが、どうでしょうか?